FANTIC

Corporate History

1968

モンティセロ・ブリアンツァ出身のマリオ=アグラーティ博士は、家族経営だった後年のガレリ社、アグラティ・ガレリ社を離れ、同社で海外営業を担当していたヘンリー=ケッペルとともに、新しい会社を立ち上げました。この新会社は、アメリカ市場向けにミニバイク、ゴーカート、エンデューロバイクを生産。その後、1968年に正式に会社名をFantic Motorと名付けました。1968年、北イタリア・バルザゴでのことでした。

1969

1969年11月、初めてミラノで開催された国際オートバイ・ショー(現代のEICMA)、50 ccのオフロード車Fantic Caballeroを出展。キャバレロ・クロス50は、特徴的な黄色のタンクを備え、Minarelli P4 SSエンジンをシルバーのVerlicchi製フレームに搭載。Fantic MotorのデザイナーであるJulius Maffessoliによって開発されたスクランブラーでした。レースバイクではなく、スポーティな外観を備えたシンプルなモペット(50㏄)で、手頃な価格であり、オフロードバイクへの高まる要望に応えることができました。キャバレロは瞬く間に、少年たちの間で受け入れられたのです。

1970

1970年の春、ファンティックはファンティック・キャバレロの最初の量産を開始しました。当初は500台程度の生産から始まりましたが、生産台数は累計で10,000台に達するほどに市場からの支持を広げていったのです。1970年末までに、ファンティックはこのCaballeroをスーパースペシャル4M、および6Mコンペティションの2機種にラインアップを広げていきます。

1971

Fantic Caballero 100ccが製造開始されました。加えて、「ミラノスーパーロケット」も発表され、ラインアップを拡充。

1972-73

Fanticの50ccと125ccチョッパーの生産が開始されました。文字通りアメリカン・バイクを愚見化したスタイルは、しかしヨーロッパでも徐々に受け入れられるようになります。ファンティック・チョッパーは、大きく傾いた長いフロントフォークを外観上の最大の特徴にデザインされ、ヨーロッパで最も個性的なモーターサイクル・ブランドとして認知されていきます。

1974

ファンティックは初の本格的なエンデューロモデル、ファンティック・キャバレロ・レギュラリティを発表しました。エンジンにMinarelli 125ccを採用、同時にコンペティション専用モデルであるCross 125もデビューさせました。

1975

ファクトリー・チームとして位置づけられる、ファンティック・モーター・レーシングチームが結成され、モトクロス競技への参加を開始しました。チームは3人の若いライダーで構成されています。50ccクラスのクリスマス=ノセダ、125クラスのモレノ=フォサーティとジャンニ=グアンツィオーリ。この年から、50 ccモデルにはFanticが設計した新しい冷却機構を持つヘッドが搭載され、1980年までのモデルは、公道走行が可能な「スーパー」、「カサ」と、レース専用モデルである「コンペティツィオーネ」の3機種が用意されました。

1976

キャバレロ・レゴラリータ125にも、Fanticが設計した冷却機構を備えるヘッドをもつミナレリ製のエンジンを搭載。また、ギアボックスに6速を採用し、6Mという呼称がモデルにつけられるようになります。

1977

ファンティックとしては初めてのトライアルバイク、Trial 125のプロトタイプがデビュー。年末には量産が始まります。レゴラリータ・モデル同様に、ファンティックが設計した冷却機構を持つヘッドが搭載されたトライアル・マシンは、ジュニア・チャンピオンシップ(選手権)が開催されると同時に参戦を開始。Fantic社内にトライアルモデル製造のノウハウを蓄え始めます。

1978

1978年に最初のMik 26がデビューしました。これは、Caballero 50コンペティションをベースにしたファクトリーモデルで、ファンティックファンの間で今日も非常に価値の高いものと位置づけられています。モトクロス・レースはさらに過熱しながらすそ野が広がり、ファクトリーモデルだったMik 26は78年限りとなって、翌年以降は一般向けの販売もスタートしていきます。のライダーのみが使用しますが、翌年に発売されます。※写真は、1980年のMik 26です。

1979

ファンティックは50ccトライアルの生産を開始し、その後200ccトライアルにモデルレンジを広げました。なお、レース専用モデルとして75ccバージョンも用意されました。

1980

イタリア人のほか、外国人のライダーも起用してトライアル選手権に参戦。モトクロスの結果も良好でした。Fanticは、モトクロス用の新しい125ccモデルも生産しています。写真はライダーのロベルト・ダヴェリオ。

1981

1981年はファンティックがエルバ島で開催されたSixdays Enduroに勝利した年でした。この年からは、モデル名もレゴラリータではなく、エンデューロと呼ばれるようになります。Fanticは、イタリア選手権と同様、ヨーロッパ選手権でも優勝しています。81年はグアルティエーロ・ブリッソーニとアンジェロ・シニョレッリの年でした。ファンティックはまた、自社製のエンジンを使用してまったく新しいモデルラインアップを用意していくことに挑戦します。併せて、「トライアルコンペティションでもトップへ」という高い目標を掲げました。

1982

81年、SWMでタイトルを獲得したジル=ブルガを、Fanticはタイトル獲得に向け起用しました。ブルガに与えられた「Traial 240」は、Fantic自社製のエンジンを搭載した最初のモデルになります。ブルガは期待に応え、イタリア選手権・シニアクラスのタイトルに加え、世界選手権でも3位にランクされる活躍を見せました。イタリア選手権の2/3位のランカーもファンティック・ライダーが占めました。50㏄クラスはディエゴ=ボシスがタイトルを獲得。これは彼のその後の数々の栄光の最初の一歩として記憶にとどめられることになるでしょう。

1983

ファンティックは、トライアルで世界チャンピオンを獲得するための進化を引き続き行い、ワールドカップのタイトルに到達するために挑戦を続けました。トップクラスには「300トライアル」のプロトタイプを投入、ジル=ブルガのランキングは4位でした。レナート=チアベルトはイタリアのシニアクラスで優勝、ディエゴ・ボシスは50㏄クラスタイトルを獲得しています。。

1984

1984年、SWMからティエリー=ミショーが移籍してきました。この年、初めて乗るファンティックでいきなり世界選手権のランキング3位を獲得。レナート=チアベルトがイタリア選手権のシニアクラスを制し、ボシスは3年連続でジュニア・クラスを制しました。ファンティックは、写真のジル=ブルガのジャンプのような大きな飛躍を目前にしていたのです。

1985

1985年、ファンティックにとって最初のフロント・ディスクブレーキと、リアにモノショックとを備えたトライアルマシン、301をデビューさせました。ファンティック301はその高いポテンシャルを開花させ、ティエリー=ミショーがついに世界タイトルを獲得しました。

1986

ファンティックは、2年目となる301を早くも「シリーズ2」として大きく進化させます。ライダーのミショーはこのシリーズ2で見事に連続チャンピオンを獲得。ファンティックの名は、トップ・メーカーとして知れ渡るようになりました。

1987

「303」と名付けられたニューマシンを駆るミショーは、世界ランキングを3位に後退させましたが、この年初めて世界チャンピオンを獲得したのが、その後10年以上にわたってトップに君臨することになるジョルディ=タレスでした。

1988

1988年、303を進化させた「303シリーズ2」を手にしたミショーは、雪辱を果たし3度目のトライアル世界チャンピオンに輝きました。タレスは88年はタイトルを逃したものの、89年からは3年連続でタイトルを獲得するなど、その後長きにわたってこのスポーツのトップに君臨していきます。